おはようございます!ミヤビです(^^)
今回は、「AIで書いた文章はなぜ“AIっぽさ”を感じるのか?」というテーマで考えていきたいと思います。
きっかけは先日仲間内で話していた時に、この話題が出たからです。
ボクはまだAIで作成したものを完璧に見抜くことはできないです。
ChatGPTをはじめ、文章生成AIはここ数年で飛躍的に進化してきました。
ただ、読んでいると、なぜか「人間が書いたものとはちょっと違う」と感じることはあります。
その理由は何なのか?
実際にAIを多用している自分自身の実感も交えながら、考察していきます。
違和感の正体を探る
AIで書かれた文章を読んでよく思うのが、「完成度は高いが、なぜか感情・心が動かない」ということ。
これは料理に例えると分かりやすいかもしれません。
完璧なレシピで作られた料理。
盛りつけも美しいし、塩加減も申し分ない。
でも、食べてみると「なんか物足りない」「機械的」という印象を受ける。
美味しいんだけど、ただ美味しいだけ。
こういうことってありますよね。
飲食店の場合は、実際にはサービスや店の雰囲気、料金感など複雑な要素が絡んできますので、料理だけで評価はできないと思いますが。
文章においては、違和感の正体は、「文脈」や「背景」の欠如にあると思います。
人間が書く文章には、その人の経験や感情、背景や葛藤といった“見えない文脈”のようなものがある気がします。
これはAIには醸し出せない人間味、人間らしさではないでしょうか。
言語的な文脈は模倣できても、「人としての生々しい経験」に根ざした文脈は持てません。
失恋した人が書く失恋エッセイには、文法や構成が整っていなくても、リアルな痛みがある。
AIが書く失恋エッセイは“それっぽい”けど、“泣けない”。
ブログを書くボクにとってもこれは重要な要素な気がしますね。

テンプレート化された構成と表現
AI文章に感じる“それっぽさ”の正体は、「テンプレ感」かな、と考えています。
AIで文章のドラフトを作ると、以下のような構成はよく見かけます。
もちろん、この構成は人間でもよく使います。
読みやすいし、SEO的にも正解。
ブログを書く時の王道的な構成で、ちょっと勉強するとよく出てくるテンプレートですね。
でも、あまりにもパターンが似通ってくると、「またこの流れか…」と感じてしまいます。
AI文章を連続して読んでいると、意識的にせよ無意識的にせよ、そういう“型”が見えてきます。
さらに、言い回しも一定のパターンが多いですね。
このあたりは、まさにAI文章あるあると言えます。
文章としては丁寧で正しいのですが、「人間くささ」が希薄になりやすいのです。
共感を生む“余白”がない
完結しすぎていることこともAI文章の特徴な気がします。
答えを出すのが得意なAIは、つい“正解”を提示しようとします。
しかし、人間の文章には「揺らぎ」や「矛盾」、「感情のブレ」があります。
読者は、そういう不完全さの中に自分を重ね、「共感」や「親しみ」を感じるのではないでしょうか。
「私は今も答えが出せずに悩んでいる」と書く人間の文章には、“読み手の居場所”があります。
「こうすれば解決できます!」と完結されたAIの文章には、読み手が入り込む余白がないことが多い
ブログも同じ気がします。
AIが書いた“正解寄りの文章”よりも、書き手が「こう思ってるけど、どうだろう?」と問いかける文章の方が、読者との距離が近く感じられるのではないでしょうか。
この“余白”が、文章の温度を左右しているように思います。
文体が「フラットすぎる問題」
AIは、文体の“癖”を抑える傾向にあります。
読みやすく、分かりやすく、文法的にも整っていて、誤解が生まれにくい──その結果、誰が書いても似たような「無個性」な文章になりやすいのです。
一方で、人間が書く文章には“癖”があります。
語尾が不安定だったり、無駄な比喩が入ったり、改行が多かったり少なかったり……。
その癖こそが「その人らしさ」だったりします。
個人的には、良いか悪いか?はなくて、読み手が読みやすいかどうか?を考える必要はあると思います。
ボクの文章は改行が多い気がしますがどうでしょうか?(笑)
「なんかこの人の文章、好きなんだよなあ」と感じるとき、それは“正しさ”や“読みやすさ”ではなく、“にじみ出る人間らしさ”に惹かれているのかもしれませんね。
AIを使って書くという“新しい表現”
ここまで、AI文章の「AIっぽさ」を考えてきましたが、ボクはAIの文章が「ダメだ」と言いたいわけではありません。
ここ最近、ボク自身はブログを書く時もAIを積極的に活用しています。
下書きの補助や調べ物の引用などには使っていますし、ブログを書いた後にブログの点数を出してもらって修正したりしています。
実は今回のブログも全部AIに書いてもらっています。
それは流石に冗談ですよww
ブログのドラフトを作ってもらったりはしますが、最終的な“温度”や“語り口”は、自分で整えるようにしています。
AIに骨組みを作ってもらい、自分で血肉をつける、そんな感覚です。
AIを「設計図のドラフトマン」のように使えばいいんではないでしょうか。
完成品には、やはり人間の“呼吸”とか“熱量”が必要だと思います。

人は「誰が書いたか」に敏感
「人は文章そのものより、“誰が書いたか”を見ている」という気がします。
これはブログをやっていると、特に痛感します。
同じようなことを言っていても、「あの人が書いた」となると読まれるし、「無名の誰か(もしくはAI)」が書いたものだとスルーされる、というのが事実ではないでしょうか。
これは読者の中にある“信頼”や“興味”の積み重ねの結果です。
ボクのような無名のサラリーマンが偉そうに言っていても、まぁなかなか人の心を動かすとか響くとかは難しいですよね。
でももしもボクが「資産が1億円以上あって、経済的自由を達成しているサラリーマン」だったら少しは違うんでしょうか??
違うかもしれませんし、説得力は少しは増すのかもしれません。
実際には普通の凡人のサラリーマンで、人生をもっとより良くしようともがいているだけです。
「AIっぽい」=「誰の言葉でもない」ことが、読者の心を動かしづらくしているとも言えます。
だからこそ、自分の“声”をどう表現するかが、今後ますます大事になると感じています。
ボクは芸能ニュースとかは見ませんし、誰かを推し活とかもしないタイプですが。
「芸能人の〇〇さんがオススメしている」とか「〇〇と言っていた」というだけで読まれる文章って実際ありますよね。
そういう文章って、別に文章としての完成度は高くなかったりします。
テクニックや理論ではなく、熱量や感情が人の心を動かすってのは普遍的な真実じゃないのかな、と思いますね。
AIと共存する時代の書き手の在り方
色々と書いてきましたが、これからの時代、文章を書く仕事においても、AIの存在は避けて通れないでしょう。
避けてもいいですが、残念ながら避けてしまうと知識や経済格差は広がってしまう残酷な現実があるとボクは思っています。
AIを活用すればいいから、「人間が書く意味がなくなる」ということではないと思っています。
AIが“模範解答”を量産するようになるからこそ、
人間にしか書けない“揺らぎ”や“体温”、そして“背景”が、いっそう価値を持っていく気がします。
人間らしい文章とは、正しくなくてもいい、完璧でなくてもいい、でも「誰かに届く」ものなのです。
先日の仲間の話でも「人間が書く文章って面白いよなぁ」みたいな感想がありましたが、ボクもそう思いますね。
ボクたち一人ひとりが、自分の感覚や体験を言葉にしていくこと、言語化するということ。
それこそが、AI全盛の時代における“書き手”としての意味ではないかな、と考えています。
まとめ
今回は「AIで書いた文章はなぜAIぽいのか?」というテーマで書いてきました。
- AIの文章は完成度は高いが、感情が動かないことがある
- 理由は「人間らしい文脈」や「経験に根ざした背景」が欠けているから
- テンプレート化された構成や表現が多く、「またこのパターンか」と感じやすい
- AIの文章は完結しすぎていて、共感を生む“余白”が少ない
- 文体がフラットすぎて、「その人らしさ」が出にくい
- 読者は「誰が書いたか」に敏感で、無名やAIの言葉には反応しにくい
- AIは設計図、書き手はそこに温度や体験を吹き込む役割
- 人間の文章には「揺らぎ」「矛盾」「熱量」があり、それが共感や親しみを生む
- 今後は「自分の声」をどう表現するかがより重要になる
- AI時代だからこそ、“人間らしさ”が価値になる
こんな感じですかね。
ちなみに最後のこのまとめに関してはほぼAIです。
あんまり添削しないでも問題ないかなぁ、という印象です。
個人的にはAIという武器を手に入れて誰でも装備できる時代になったな、という感覚です。
ボクの経験や感情を今後もブログで言語化して、「人生をもっとより良く」というテーマ、ミッションを体現していければな、と思います。
今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。
より良い人生にしていきましょう\(^o^)/
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