《たかが人間》僧侶を信用できない理由【仏教や思想の歪んだ解釈】

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《たかが人間》僧侶を信用できない理由【仏教や思想の歪んだ解釈】のブログ記事のサムネイル 【人生論】

おはようございます!ミヤビです(^^)

今週は「ボクのお寺生まれという背景」をもとにブログ記事を書いています。

薄々感じているかと思いますが、正直に言えばボクは「僧侶」という存在そのものには、ずっと疑問を抱いています。
いや、はっきり言って「信用できない」と思っています。

今日は、そんな「僧侶を信用できない」というボクの率直な気持ちと、別に仏教に対しては敬意を失っていないよ、という両面から書いていきます。

僧侶も所詮はたかが人間である

大前提として、僧侶も所詮はたかが人間です。

宗教によっては、まるで仏様そのものの様に神格化して扱っている宗派もありますが、一つの人間であり、僧侶は職業に過ぎないとボクは考えています。

もうこの考え方自体が「お前は間違っている!」と叩かれそうですけどね。

ボクの過去のお寺の寮生活で、暴力と恐怖の生活は少し書いてきました。

もちろん、すべての人が暴力を振るうわけじゃありませんし、中にはボクのように優しい人もいたんですよ??(笑)

しかし、中学生や高校生の多感な時期とは言え、本当にエグいくらいの暴力があったので、何か人間性を疑っちゃうような人も一定数います。

何と言うか、暴力そのものを楽しんでいるような人間性の人がいて、そんな人が残念ながら今でも僧侶をやっているという事実があります。

特定の団体や個人を攻撃、批判する意図は全くありません。

鎖国された社会で育ち、歪んだ価値観で育った僧侶予備軍がそのまま僧侶になっているので、モンスターを育てて世に放ってしまっているような部分は実態としてある、と認識しておいてほしいと思います。

歪んだ価値観で育った僧侶がモンスターとして世に放たれているのかもしれない。

僧侶の父親のことも信用していない

ボクの父親は現在も僧侶です。

社会で働いたこともなく、ずっとお寺の世界で生きてきた純度100%の僧侶です。

父親ですが、ボクはハッキリ言って信用も信頼もしていません。
僧侶としても父親としても美点が見つからないと考えています。

こんなこと書くのはちょっと心苦しいし、ボクが間違っているのでしょう。
親不孝な奴め、と罵っていただいても構いませんが、正直な気持ちです。

憎んでいるとか恨んでいるとかはありません。

父親が僧侶というのは事実であり、彼が死ぬまで外れることがない呪いの装備なので、ちょっとだけ触れておきました。

僧侶であるから信用していない、というわけでもないし、父親個人の人間性の問題の方が大きいとは思います。

そこに僧侶という生き方や、お寺の世界という環境が悪いシナジーを生んでいると考えています。

煩悩まみれの僧侶の実態

これも実体験ですが、お寺の住職や関わる僧侶は欲にまみれた遊びをしているのは聞きます。

  • パチンコ三昧
  • 酒浸り
  • 女遊び。

僧侶じゃなくってもこんなの「何だかなぁ」と思ってしまいますが。
僧侶であると余計に聞こえが悪くなる部分はあるでしょうが、まぁあんまり良いことではないです

僧侶も人間ですので、煩悩があるのは仕方ないですよ。
息抜きをしたっていいと思います。

でも、仏の教えを伝える立場にある人が、自ら煩悩にどっぷり浸かっていてどうするんだろう? 
と思ってしまうのです。

さらに厄介なのは、そういう人ほど「ありがたいお話」をしたりすること。
形式としての読経や説法が、どこか空虚に響いてしまうのは、こうした人間性のズレを感じ取ってしまうからでしょう。

「お前が何言ってるんだよ、、、」

こんな気持になってしまうことは否めません。

ボクは完璧な人間を求めているわけではありません。
でも「僧侶」と名乗るのであれば、それなりの「覚悟」や「節度」は持っていてほしいです。
そうでなければ、ただの職業宗教家であり、信頼には足りません。

余談ですが、ボクの父はお酒をよく飲んでいる程度で、知る限りは女遊びとは聞いたことないので、その点は真面目なのかもしれませんね。

酒は飲み過ぎだけどな!

お布施とは一体なんなのか?

さて、お寺の世界では表現は色々あるかもしれませんが、「お布施」という課金システムがありますね。

お布施(おふせ)とは、主に仏教の葬儀や法要の際に、僧侶が読経や戒名の授与などの宗教的な儀式を行ってくれたことへの感謝の気持ちとして渡す金銭や物品のことです。

お布施の意味と起源

  • お布施は、仏教における「布施(ふせ)」という教えに由来し、「施しを与える」という意味を持ちます。
  • 本来は金銭に限らず、食べ物や日用品など生活に必要な物品を提供することも含まれていました。
  • お布施は「報酬」や「対価」ではなく、あくまで感謝や善意を表す行為であり、仏道修行の一環とされています。

現代日本におけるお布施

  • 現在では、葬儀や法要で僧侶に読経や戒名を授与してもらった際に、謝礼として金銭を包んで渡すのが一般的です。
  • 渡す金額には明確な決まりはなく、葬儀の場合は10万円~50万円、法要の場合は1万円~5万円程度が目安とされています。
  • お布施は白無地の封筒や奉書紙に包み、水引は基本的にかけません。
  • 「包む」「納める」といった表現を用い、「読経料」「戒名料」などの言い方は避けます。

お布施の宗教的意義

  • お布施は、僧侶個人への報酬ではなく、ご本尊(仏様)に供養するという宗教的な意味合いが強いです。
  • 渡したお布施は寺院の維持や活動費などに使われます。

仏教以外の宗教との違い

  • お布施は仏教特有の概念であり、神道では「祭祀料(さいしりょう)」という別の謝礼金が用いられます。

まとめると、お布施とは仏教儀式における感謝と供養の気持ちを表すために、僧侶や寺院に金銭や物品を渡す行為であり、報酬ではなく善意や宗教的な意味合いを持つものです。

Perplexity の Eliot より

お葬式や法事のたびに登場する「お布施」という存在。
これ、実際いくら包めばいいのか、誰も明確に教えてくれません。

「お気持ちで」と言われるくせに、少なければ露骨に嫌な顔をされた、という経験がある人もいるようです。
中の人は、露骨に嫌な顔をしている側なので、何と言うかまぁ表現できない嫌な感じがあります。

「お気持ち」と言うなら、極論ですがゼロでもいいはず。
でも現実には“相場”があり、“相場より少ない”と批判される――これって矛盾してませんか?

しかも、僧侶が高級車に乗って現れ、形式的なお経を読み上げてすぐに帰っていく。
故人のことを何も知らない人が、数万円から十数万円という“お気持ち”を受け取っていく姿を見て、「ああ、これはもう“ビジネス”なんだな」と思いました。

僧侶のすべてがそうだとは言いません。
でも、制度としてこれが常態化している現実に、ボクは強い違和感を覚えます。

お布施の問題点

ボクが考えるお布施の問題点を2つ書いておきます。

  • 現金で手渡しされる事が多い
  • 相場がない

宗派によるでしょうが、未だに現金管理のみになっているところは多いようです。

これにより何が起こるか?
詳しく書けないこともありますが、まぁ脱税っぽいこととか盗難とか悪いことは想像できます。

前述しましたが相場がないことはお寺側、ユーザー側双方から考えて問題です。

お寺にも運営や生活があるので、本当に「お気持ち」だけで成り立つんでしょうか。
成り立つわけがないので、相場がないというのは問題だと思います。

飲食店に行って、食事をする際にいつもお気持ちで支払いをする店なんて基本的にないですよね。
同じサービスを提供しているのにお気持ち次第で値段が変わってしまう。

ポジティヴに考えれば推し活のようでもあり、全てを否定するわけではありませんが、ビジネスとして考えるなら問題でもあります。

お布施はお気持ちであり、相場がない。

檀家制度の限界と、地域への依存

そもそも日本の多くの寺は、檀家制度に依存しています。

これは江戸時代に生まれた制度で、家ごとに特定の寺を“属寺”として持ち、代々管理を任せるという仕組みです。
葬儀・法事をお願いするのもその寺。
つまり、自由に選ぶことはできないわけです。

この制度が現代にマッチしているかというとちょっと疑問はあります。
形式的で、実質的な信仰心があるわけでもないのに、「家の付き合い」として半ば強制的に寺と関わらなければならない。

しかも、代替わりした住職が傲慢だったり、ビジネスライクだったりすると最悪です。
頼んでもいない寄付のお願いが来たり、寺の修繕費を請求されたりする話なんかもあります。

これはもう宗教ではなく、“共同体への会費請求”と化しているのではないかとすら感じますね。

こういうのが地方に行けば行くほど根深くあったりするので、地方に住むというのも少し難しい部分なあるなぁ、と感じます。

仏教という思想には魅力がある

ここまで、かなり否定的なことを書いてきました。
誤解してほしくないですが、ボクは「仏教そのもの」を否定しているわけではありません。

むしろ、仏教が説く「無常」や「縁起」「空」といった思想には、一定の尊重があり、深い感銘を受けています。
人生の苦しみや執着から解放されるためのヒントが、たくさん詰まっていると感じます。

問題の本質は、それを伝える「媒介者」としての僧侶が、本来の意味を損なってしまっているケースが多い、ということなのです。

つまりは「僧侶≠仏教」だと考えています。

もし仏陀が現代に生きていたら、今の日本の寺の在り方をどう思うでしょうか。
少なくとも「ありがたくない法話を金で売る」ようなビジネスモデルは選ばないのではないでしょうか。

お寺の未来について

お寺の未来も変化の激しい時代の影響を受けているし、今後も確実に受けていくと思っています。

お寺の未来は明るいか

日本のお寺は、少子高齢化や都市化、檀家制度の弱体化、後継者不足など、存続に関わる深刻な課題に直面しています。実際、全国約75,000の寺院のうち、約20,000が「空き寺」となっており、このままでは数年後に半減する可能性も指摘されています。

一方で、こうした危機を単なる衰退と捉えるのではなく、「新たな可能性を切り開く機会」として捉え、未来志向の取り組みを進めるお寺も増えています。

現状の課題

  • 檀家・信徒の減少による経済基盤の弱体化
  • 後継者不足による寺院の維持困難
  • 都市化や価値観の多様化による地域との関係性の希薄化
  • お寺が「入りづらい場所」と感じられやすい社会的イメージ

明るい未来に向けた動き

お寺の未来を明るくするため、各地で以下のような新しい取り組みや再定義が進んでいます。

デジタル化・IT活用

  • VR法要やオンライン法事、LINEでの相談・予約システムなど、現代のニーズに即したサービスを導入する寺院が登場1

地域共生・コミュニティ拠点化

  • 宿坊を活用したワーケーション受け入れや、瞑想・坐禅体験など、地域資源や自然と融合した新しい価値の創出1
  • 境内のガーデニングやイベント開催など、地域住民や多様な人々が集う「憩いの場」としての機能強化13

社会課題への対応

  • 災害時の避難所登録や寺子屋の再開放、子ども食堂など、社会的役割の拡大3
  • 生きづらさを抱える人への癒しや気づきの場としての役割を再評価2

経営・運営のプロフェッショナル化

  • 専門家の支援や経営コンサルティングを受け、財務改善や新たな収入源の確立を図る寺院も増加。

お寺は確かに厳しい現実に直面していますが、時代に合わせて役割や価値を再定義し、IT化や地域連携、社会課題への貢献など新たな挑戦を始めています。こうした動きが広がれば、お寺は「地域と共に未来を創る拠点」として、これからも社会に必要とされ続ける可能性があります。

したがって、「お寺の未来は明るいか」という問いには、「課題は多いが、変革と挑戦によって明るい未来を切り拓く可能性が十分にある」と言えるでしょう。

Perplexity の Eliot より

ボクは別にお寺に滅んでほしい、とかは思っていないです。

救われる人がいるのも事実だし、日本の守るべき文化という側面もあると思います。
自分もお寺で生まれたので、今向き合うべき課題がありどう解決していくか?というマインドで考えているだけです。

自分自身は今後は宗教やお寺には関わらない人生を生きていくつもりですが、考え方はいつか変わるかも知れませんね。

余談:暴力のトラウマと複雑な気持ち

過去にボクをものすごく殴った人が、今現在も偉そうに僧侶としているという現実はあります。
その人たちを恨んだり今さらどうこうしてやるという気持ちはありませんが、赦せるともまた言えない複雑な気持ちです。

人の過去をいつまでもあーだこーだ言っても仕方ないですし、未来に向けて行動する方が健全です。

ただ、そういう人を殴ったり蹴ったりしていた輩で、今僧侶をやっている人たちは、結局ロクでもない住職になっているケースが多いです。

人はいつからでも変われるはずですが、人間の本質は変わらないんでしょうかねえ。

これは余談ですし証明もできませんが、ボクは殴る蹴るの暴力を自ら行ったことは誓ってないです。
言葉の暴力はあったかもしれません。
迷惑をかけた人たち、本当にごめんなさい。

荒れた世界にいても、ボクは同期の仲間が優しかったので、「自分がされて嫌なことは人にはしない」の精神で仲間と共に成長していきました。

これは本当に人によるんですが、「自分がされたから自分もしてやる」というタイプの方がどうやら多いようです。

戦争が本当の意味で無くならないのも、こういう人間の性質・本能に原因があると感じます。

戦争が無くならないのは人間の性質、本能に原因があるのかもしれない。

まとめ

今日は「僧侶を信用できない」というボクの率直な気持ちと、別に仏教に対しては敬意を失っていないというテーマで書いてきました。

  • 僧侶という肩書があるからといって、必ずしも人間的に信用できるわけではない
  • 学生時代に見た「僧侶を目指す人々」の傲慢さや暴力性にショックを受けた
  • 僧侶である父との関係からも、「仏教を伝える人間」に対する不信感が強まった
  • 「お布施」や「檀家制度」といった仕組みには、時代遅れな側面や不透明な運用もある
  • 僧侶にも人間としての弱さやエゴがあることを忘れてはいけない
  • 一部の僧侶のふるまいが、仏教そのものへの信頼を損なってしまっている
  • それでも、仏教そのものの思想や教えには敬意を持っている
  • 今後も「信じるべきは誰か、人か、教えか?」を自分自身に問い続けていきたい

こんな感じですかね。

僧侶を無条件に信じることは、ボクにはもうできません。
僧侶に限らずですが、盲目的に従うのではなく、自分の頭で考える、感じる、選ぶ。

この主体的な選択が大事なんじゃないでしょうか。

今回の記事はだいぶ感情が入ってしまって書いているので、ちょっと言葉が強かったりキツイ部分があるかと思います。

AIでの添削でも記事の評価はあまり高くなかったですが、意図的にあまり改善せずに掲載しています。

お寺に関わる人すべてがこうじゃないし、否定する意図は全くありません。
その点は誤解なきようによろしくお願いします。

今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。

より良い人生にしていきましょう\(^o^)/

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