《人と比べない》他人ではなく自分の人生を生きる【自ら決断する】

スポンサーリンク
20250422_サムネイル 【人生論】

おはようございます!ミヤビです(^^)

少し汗ばむくらいの陽気になってきました。

春を感じる時間は短くて、もう夏の足音が聞こえている気がしますね。

今日は「他人の人生ではなく、自分の人生を生きる。」というテーマでブログを書いていきます。

この言葉自体は受け売りですが、ボクの人生を生きていく一つの指針としている言葉ですので、少し掘り下げて言語化しておきます。

他人の人生ではなく、自分の人生を生きる。

他人の人生でなく、自分の人生を生きる。

この言葉を聞いて皆さまはどう思われますか?

何だか当たり前だろ、と言われそうですね。

物理的に、他人の人生を生きるということはもちろんできないです。

アニメや異世界転生みたいなことではなく、SNSをよく見る人が多い現代社会では、概念として他人の人生を生きていることが多いんじゃないかなぁ?と時々思うので、今回は考えていきます。

「誰かの期待」に縛られていた過去

この言葉を初めて聞いたのは、おそらく税理士の大河内先生のvoicyだと思います。

この言葉はけっこうボクには深く刺さりました。

単純に、ボクは「人のため」という考え方で、自分の人生を生きていなかったなぁ、と感じたからです。

ふと自分の人生を振り返ったときに、驚くほど多くの場面で「自分の意思ではなく、誰かの期待に応えるために生きていた」んではないか?と気づいた感じです。

  • 親の期待に応えるために選んだ進路
  • 世間体を気にして入った会社
  • 「普通はこうするべき」という空気を読んでの行動

こういうこと、誰にでもあるんじゃないでしょうか??

ボクは両親の影響をとても強く受けていたので、世間体を気にしたり、「普通はこうするべき」という常識とか空気を読むことがすごく多かったです。

両親は見栄っ張りで、世間体を気にするタイプでした。

こうやって書くと、ずいぶん自分を押し殺して生きてきたように見えますが、当時の自分には「それが当たり前」でした。

他の選択肢がなかった、とも言えるかもしれません。

むしろ、期待に応えて「よくやった」と言われることが、人生の目的になっていたのかもしれません。

まさに、「他人の人生を生きていた」と今では思います。

「誰かの人生」は心地よく、しかしながらどこか虚しい

誰かの敷いてくれたレールの上を歩く人生は、ある意味で楽でもあります。

ちょっと厳しい表現かもしれませんが、「思考停止して、自分の頭で考えなくていい」わけですからね。

自分で選ばなくていい。
決断しなくていい。

失敗しても「だって〇〇の言うとおりにしただけだし」と言い訳ができる。
責任を引き受けなくて済む。

でも、心のどこかではなんだか違和感のような、虚しさのような、気持ち悪さを感じていました。

  • 「本当にこれでよかったのかな?」
  • 「これってボクの人生なんだろうか?」

それでいいのか?

時々、自分の心に問いかける声がありました。

きっかけはレールを外れた時

今にして思うと、ボクが自分の人生を歩むきっかけの一つになったのは、親の敷いたレールを外れた時だったかもしれません。

ボクは実家がお寺で、僧侶になるという道が用意されていました。

まぁ、用意されていたというほど用意もされていませんでしたが^^;、、、

お寺生まれのボクの生い立ちについては過去に少し書いていました。
いずれまとめも作成しておきます。

僧侶の道は進まない、と20歳くらいに決めたのは、自分の人生を歩みだした最初の一歩な気がします。

しかし、これまでの生き方で他人の人生を生きていることが根付いているボクなので、そもそもそういう感覚もありませんでしたし、20代の頃は言語化もできていなかったです。

今は日常の小さな違和感を「無視しない」とか、自分軸はあります。

  • 会いたくない人と会わない
  • できない約束をしない
  • やりたくない飲み会には行かない

些細なことですが、小さなことの積み重ねで人生は形成されていきます。

批判があるかもしれませんが、コロナ禍の影響で世の中が変化したのも、ボクにとっては良い影響があったかな、とポジティヴに捉えています。

病気で休職までしましたが、それらも必要だった経験で、必然だったな、と思っています。

「自分の人生を生きる」とは、どういうことか?

この言葉は、決して「誰とも関わらず孤独に生きろ」という意味ではありません。
好き勝手に生きろ、とか奇人変人になれ、という意味でもありません。

むしろ、自分の人生を大切にする人ほど、人を大切にできるのだとボクは思っています。

自分の価値観、自分の時間、自分の感情をしっかりと言語化して、受け止める。
そのうえで、誰かと関わる。
だからこそ、ぶれない。
だからこそ、心からの共感ができる。

「自分の人生を生きる」とは、他人と比べることではないんです。

誰かの評価を基準にするのでもなく、
「自分がどう在りたいか」「何を大切にしたいか」を起点にすること。

自助努力であり、今これからどうするか?と前向きに生きていくことだとボクは思います。

自ら考えて決断し、その選択に責任を持ち、日々少しずつでも前に進んでいくこと。

これが一貫性があり、自分の人生を生きていく生き方かな、と今は思っています。

他人と関わりたくない人の問題点

「他人と関わりたくない」というタイプの人、っていると思います。

この気持ちはよく分かるし、ボクもそういう思いを持つ時はあります。

この考え方の問題点を少し書いておきます。

自分の人生を生きよう、というと誤解されますが、前述した通り孤独に生きろ、とか他人と関わるな、ということではありません。

本当に他人と関わりたくないのであれば、無人島で電気もネットもない世界で一人で生きていくしかないと思います。

現代社会に生きているボクたちは、常に誰かのおかげで生活が成り立っているはずです。

ネットで買い物をすれば配達してくれる人、ピッキングしてくれる人、そもそも商品を作っている人、などなど、たくさんの人たちに相互扶助されて生きているはずです。

なので、ボクは「他人と関わりたくない」と言い放つタイプの人は、「少し自分勝手だな」と解釈しています。

一人で生きていく、というのはそんなに簡単じゃありません。

水道から水が出る、電気がつく。

どんなにありがたいことなんでしょうか。

日常が当たり前に思えているようなら、それは慢心の始まりだと思います。

ボクも気をつけていきます。

まとめ

今日は「他人の人生ではなく、自分の人生を生きる。」というテーマで言語化してきました。

  • 「他人の期待」や「世間体」に縛られすぎないよう意識する
  • 自分の気持ちや価値観を無視せず、小さな違和感にも耳を傾ける
  • 「誰かのために生きる」ではなく、「自分がどう在りたいか」を起点に考える
  • 思考停止ではなく、自ら考え、選び、行動する姿勢を大切にする
  • 誰かが敷いたレールではなく、自分で選んだ道を歩むことに意味がある
  • 関わる人は選んでいい。無理して会わなくてもいい
  • 一人で生きているわけではなく、社会の恩恵を受けていることも忘れない
  • 「自分勝手」ではなく「自分軸」で生きることが、周囲を大切にすることにもつながる
  • 日常のありがたさを再認識し、慢心しないよう感謝を忘れない
  • 少しずつでも、自分の人生を自分の足で前に進めていくことが大事

こんな感じですね。

他人の人生を生きるには、人生はあまりにも短すぎます。

たとえ不器用でも、失敗が多くても、自分で選んだ道だから納得できるはずです。
誰かに決められたゴールではなく、自分自身が「こうありたい」と思える姿に近づいていく。

その過程が、ボクにとって「自分の人生を生きる」ということです。

もし今、何かモヤモヤした感情を抱えているなら、もしかするとそれは「誰かの人生を生きている」サインかもしれません。

いきなりすべてを変える必要はありません。
まずは、小さな選択から。

「今日は何を食べたいか」「今、誰と過ごしたいか」
そんな日常の一つひとつを、他人の目ではなく、自分の心で選ぶ。

その積み重ねが、あなたの人生をあなたのものにしていくのだと思います。

今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。

より良い人生にしていきましょう\(^o^)/

コメント

タイトルとURLをコピーしました