《昭和の毒親とは?》家族それはヘンテコなもの【有限な人生との向き合い方】

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おはようございます!ミヤビです(^^)

ゴールデンウイーク真っ只中ですね。

特にボクは大きな連休は取得していませんが、束の間、実家に帰省したりして過ごしています。

リモートワークできるのでどこでも仕事もできてブログも書ける環境に感謝ですね。

実家に帰る機会は1年に2~3回くらいしかありませんが、帰れば親弟妹のこととか色々考えることがあります。

そんな今日は「親との向き合い方、家族」というテーマで少し言語化していきます。

昭和の親との向き合い方

ボクはゴリゴリの昭和生まれです。

両親も昭和生まれなので、今の若い人たちからすると少し価値観が古い、違う部分が多いかも知れません。

過去にも書いたことがありますが、実家がお寺ということで、一般的なサラリーマンの家庭を知らずに育ってきました。

自分が特別な存在だ、なんて言うつもりはありませんが、客観的に見て特殊な環境で育ったと思います。

ボク自身は生んでくれた母親に感謝しているし、最高の人生を生きているのでお母さん、ありがとうという気持ちです。

ただ、父親に対しては少し複雑な気持ちを持っていて、もっとちゃんとしろよ、とか思ったりします。

この数年知った言葉ですが、昭和の毒親というやつではないかな?とちょっと思ったりします。

昭和の毒親とは、昭和時代(1926〜1989年)に多く見られた、子どもの心や自由を尊重せず、自分の価値観や考えを一方的に押しつける親のことを指します。

簡単に言うと:

**「子どもをコントロールしようとする、愛情が偏った親」**です。

典型的な特徴(例):

  • 「親の言うことが絶対」と考える
  • 体罰や怒鳴ることでしつけをする
  • 子どもの気持ちより世間体を優先
  • 子どもを「親の所有物」のように扱う
  • 愛情と支配を混同し、「お前のため」と過干渉

こうした親のもとで育つと、子どもは自信を失ったり、自己肯定感が低くなったりすることがあります。

親に向かって毒親、なんていうのはちょっとなぁ、って気もしますが、そういう要素はあるんじゃないかな?

証明はできませんが、両親たちは自分たちのことを「善い親」と思っていそうです(笑)

恵まれていた幼少期

とはいえ、ボク自身は恵まれて育ったなぁ、と思います。

子供の頃、欲しいものはある程度買ってもらえていたし、母親は毎日おいしいご飯を作ってくれていました。

けっこう教育熱心な母親だったので、一週間の内、6日間くらいは何かしら習い事に通っていました。

  • 水泳
  • 絵画教室
  • 公文
  • 学習塾

他にも何かやってた気がしますが、とりあえずけっこう色々習わされました。

何一つ極めた習い事はないですが、勉強をするという基礎習慣を子どもの頃に身につけれたのは母親のおかげかな、と思います。

ボクは子どもを育てた経験はありませんし、時代が違うので一概に比較はできませんが、これだけ習い事をさせてくれるっていうのはある程度経済的に豊かだったんだなぁ、と思います。

会社で子育てをしている同僚とかはホント経済的に大変そうですもんね、、、

こういう意見は批判があるかもしれませんが、結婚と子育ては贅沢品だな、と個人的には思います。

ボクも独身一人暮らしでも生活にそんな余裕があるわけではないので、子育てしながら働くっていうのはホント大変だなぁ、と思います。

お金の話をするもんじゃない、みたいな風潮が日本ではありますが、現実問題として子育てをするのはお金がかかるなぁ、と思います。

子育ては現実問題として大変

地方の田舎暮らし、村社会の実態

両親は今の場所に40年以上暮らしています。

昭和の親世代は家を建ててその地に住み続ける、というのが一般的だったので特に違和感を感じていないでしょうが、ボクのようにあちこち転勤で引っ越してきた身からすると、やはり住む場所ってのは重要な気がします。

もちろん、ボクもできれば引っ越しをしたいわけじゃないですよ??

ただ、人間やはり住む場所など、環境の影響は大きいです。

一つの場所に留まり続ける、これでいいや、って思うのは安定志向、現状維持志向だと思います。

ただ、それって緩やかな衰退にしかボクには思えないです。

いつも同じ場所で同じ人としか付き合わず、価値観のアップデートがされない。

両親は余生が長いわけではないので、「今さら〜」みたいな気持ちになるのもわかりますが、ボクは両親と同じ年齢になった時にも同じ気持ちにはなりたくないです。

人間、いつだって今日が人生で一番若い日です。

「当たり前」の中にある問い直し

両親と同じ場所で長く暮らしていないからこそ、帰省するといろんなことが目につきます。

朝起きる時間の違いや、日中の過ごし方、毎日お酒を飲む父親などなど。

実家で暮らす彼らにとっては日常なんでしょうが、ボクの日常とはかけ離れています。

日常って、ある意味「変わらなさ」が価値だったりもするんでしょうが、ボクにはどうしてもそれが「思考停止」に見えてしまいます。

変わらないことが悪いわけじゃないです。

でも、「今の自分にとって、それは本当に必要なもの?」と問い直す視点を持たないのは、もったいないと思うのです。

「人生をもっとより良く」と「足るを知る」のバランスが大事なんじゃないかな、と思います。

親は常に正しいのか?

特に父親に対して思うのは、「なんでそんなに自分が正しいと思い込めるんだろう?」ということ。

昔ながらの父親像って、威厳があって、口数が少なくて、でも一家の大黒柱。

よくいる昭和の父親像な気はしますが、個人的には自分勝手だな、と思います。

「誰かの話を聞く」「アップデートする」「柔軟に考える」といった姿勢は、正直ほとんど見たことがありません。

「もう年齢だから」とか「今さら〜」とか言われちゃうと、それ以上議論の余地はなくなります。

ただ自分のやりたいようにしてただけじゃないの?と、疑いたくなることもあります。

これを「毒親」というのかはわかりませんが、親の善意が時に押しつけになる瞬間は確かに存在します。

善意を押し付けてくる昭和の親。

「親だから」といって、無条件に尊敬できるわけじゃない

昔は「親を敬え」と教わりました。

でも、今の時代、「親だから」というだけで絶対視するのは、無理があるように思います。

これも批判があると思いますが、子どもというのはどこまでいっても親のエゴで産まれるものでしかないと思います。

もちろん、命を授けてくれたこと、育ててくれたことには感謝しています。

ただ、「人格として尊敬できるかどうか」は別の話です。

親にも弱さや欠点がある。
時に子どもを傷つけることもある。
それを「親なんだから仕方ない」で片づけるのは、おかしいかなと思います。

大人になった今、親を「一人の人間」として見ることができるようになったからこそ、そういう冷静な視点を持つことも必要だと思っています。

ボクは親だから大事、ではなく、ボクを大事にしてくれるから大事にする人を大事にしたいですね。

距離を取ることで、見えてくること

今、実家とは物理的にも精神的にも距離があります。

昔は「それでいいのかな」と迷ったこともありましたが、今はむしろその距離感がちょうどいいのかもしれない、と思うようになりました。

家族だからって、べったりしなきゃいけないわけじゃない。

逆に、距離があるからこそ、お互いに冷静でいられますし、俯瞰して物事を見れる気がします。

必要以上に干渉しないけど、必要な時は手を差し伸べる。

そういう関係の方が、今の時代には合っている気がしていますし、ボクはそういうタイプです。

家族は「今」も「これから」も変わる

実家で過ごしていながらふと思ったことがあります。

「家族って、今ある形がずっと続くわけじゃないんだよな」と。

親は年老いていく。
やがて、いなくなる時が来る。

自分もいつまでも元気でいられる保証なんてない。

特に、コロナ後遺症という病気で苦しい期間があって、この数年、同年代の仲間との永遠の別れも経験したので、特に「人生は有限である」ということを強く感じます。

だからこそ、家族との関係も「変わっていく前提」で考えたい。

今のうちに、伝えたいことを伝えておく。
できる限り、後悔のないようにしておく。

それが“今の自分”にできる最善の向き合い方なのかもしれません。

家族を選べないという不条理

よく言われる言葉に、「友達は選べるけど、家族は選べない」というものがあります。

たしかにその通りで、だからこそ理不尽さや葛藤も生まれやすい。

でも、だからといって家族を「切り捨てる」ことが正解とも限らない。

どう向き合うかは、人それぞれ。
ただボクは、自分の人生にとって「プラスになる距離感」を常に模索していきたい。

必要なら少し離れる。
でも、それは「嫌いだから」ではなく、自分を守るため。

感情に任せて断絶するのではなく、理性で選ぶ“関係性”のあり方。
それが、成熟した家族のあり方なのかもしれません。

「親孝行」という呪縛

ところで、「親孝行」って何でしょうね。

よく「親孝行しなさい」って言われてきましたが、ボクはその言葉に少し違和感を感じます。

親が望む形を叶えることが、果たして“孝行”なんでしょうか?

親の老後を心配するあまり、自分を犠牲にしてまで尽くすことが、本当に正しい選択なんでしょうか?
ボクは、まず「自分の人生をきちんと生きること」が、最大の親孝行だと思っています。

親の価値観ではなく、自分の価値観で。
親の期待ではなく、自分の意志で。

そうやって自立して、自分の人生を幸せに生きること。
それこそが最大の親孝行じゃないんでしょうか?

自分の人生を幸せに生き抜こと、それこそが最大の親孝行。

自分の人生は、誰のものでもない

あらためて思いますが、家族というのは、ありがたくもあり、厄介でもあります。

でも、最終的に自分の人生を背負うのは、自分しかいません。

親の意見に従ったからといって、失敗したときに責任を取ってくれるわけじゃない。

だからこそ、「自分で考える」「自分で決める」って本当に大事です。

親の意見も聞きつつ、自分の価値観を磨いていく。

その上で、自分なりの幸せな人生を選んでいく。
ボクは、そんな人生を歩みたいと思っています。

まとめ

今日はゴールデンウイークに実家に帰省したときの家族との向き合い方について書いてきました。

  • ゴールデンウィークに実家に帰省し、家族との距離感について改めて考えた
  • 昭和の親世代との価値観のズレを感じつつも、感謝と葛藤の両方がある
  • 母親には感謝している一方、父親には未だにモヤモヤした気持ちを抱えている
  • 「昭和の毒親」のような一方的な価値観の押しつけに苦しんだ記憶がある
  • 幼少期は経済的に恵まれ、多くの習い事を通じて基礎が育まれた
  • 結婚・子育てのハードルの高さや、現代社会の経済的現実にも触れた
  • 実家のある地域の“変わらなさ”に対して、思考停止や衰退のリスクを感じた
  • 「親は常に正しい」という考えに疑問を持ち、大人としての冷静な視点が必要だと感じている
  • 家族との関係は「距離を取ることで見えること」があり、今はその距離感が心地よい
  • 家族も人生も「変化していく前提」で向き合うことが大切だと実感
  • 家族は選べない存在だからこそ、自分にとって“プラスになる距離感”を模索し続けたい

こんな感じですかね。

ボクの個人的感想も多かったので、ツラツラと書いてしまいました。

家族は変えられないけど、自分は変えられる。

そして、自分が変わることで、家族との関係も少しずつ変わっていく。

全部うまくはいかないかもしれないけど、少しずつ歩み寄れたらいいです。
無理に分かり合おうとしなくて大丈夫。

親との関係は真面目な人ほど悩んでしまうこともあるかもしれません。

「自分の人生を生きる」ことが、まずは大事ですね。

今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。

より良い人生にしていきましょう\(^o^)/

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