おはようございます!ミヤビです(^^)
今週は自分の過去をツラツラと書いているシリーズで言語化しています。
今日も前回からの続きを書いていきます。
お寺で育ったことで身についた“価値観”という呪縛
さて、前回は中学から始まった寮生活、修行時代の暴力的な上下関係、僧侶の道を途中で辞めるに至るまでの流れと、それに付随するトラウマ的な体験を書きました。
今回は、もう少し「価値観」という観点にフォーカスして、お寺の中で育ったからこそ身についた思考のクセや、世間とのギャップについて、ツラツラ書いていこうと思います。
「忍耐は美徳」…それって本当?
お寺の世界で教えられてきたことの一つに、「我慢は美徳」「耐えることが成長につながる」といった考えがあります。
昭和の根性論みたいなことですね。
もちろん、人生には忍耐が必要な場面があるのは理解しています。
どんな世界でも、苦しい時期を耐えることで見えてくる景色もある。
でも、耐えることそのものが目的になってしまっていたら、それはただの苦行です。
当時のボクは「殴られるのも、理不尽なルールに従うのも、文句を言わないのが美しいこと」と教え込まれていました。
寮生活では「黙って従う」ことが正義のように刷り込まれていたので、上の先輩たちが言う事は絶対でした。
- 「反論するな」
- 「言い訳するな」
- 「黙ってやれ」
たまに生意気な後輩がいたりしたら、先輩たち複数人で袋叩きにあいます。
こんな生活をしていると毎日が本当に苦しく辛い日々でした。
こういう価値観を植え付けられて、知らず知らずのうちに、自分の内側に根を下ろしていたんだと思います。
社会に出てから、「え、それっておかしくない?」とか、「それ、ちゃんと話し合って決めようよ」といった当たり前のコミュニケーションがなかなかできなかったように思います。
この時の原体験がボクは無意識にトラウマになっていて、いまだに年上の人や権威ある人に対しては、少し恐怖を覚えます。
誰でも目上の人に対して恐怖や緊張感はあるかと思いますが、ちょっと必要以上に強張ってしまっているような感覚があります。
それって、「尊敬」じゃなくて「恐怖」や「洗脳」の名残なんだろうなと、最近になって認識できた気がします。
現在はありがたいことに、仲間や上司に恵まれていて、善い人ばかりです。
それでも「年上」というだけで、ちょっとだけ萎縮してしまう自分がいるのもまた事実です。

「公のために生きよ」というプレッシャー
お寺の世界では、本来は「個」より「公」が優先されるものだと思っています。
「自分のために」何かをする、というよりは、
「人のために」「世のために」「仏さまのために」行動することが尊い、とされてきました。
少なくとも、ボクは信仰深い母親からこの価値観を教えて育てられたような気はしています。
この価値観が悪いとは思いません。
実際、今でも「誰かの役に立てるならやろう」という想いはボクの中に残っています。
最近では「他者貢献」という言葉で、ブログの中でも時々書いています。
でも、その「公のために」が極端に行き過ぎると、「自分の気持ちは後回しで当然」みたいになってしまっていた時期もありました。
度を過ぎた自己犠牲をしていたんだと思います。
実際、ボクはずっと「自分のやりたいこと」よりも、「親の期待」に応えようと生きてきました。
「親が望む道」「お寺の後継としての役割」を優先して生きてきました。
実際問題として、親の跡を継ぐということはありませんが、近しい考え方です。
こんな風にけっこう強烈に思い込んでいました
でも、それって本当に正しいんでしょうか?
一歩引いて見たとき、「公のために生きる」は、他人からすれば都合のいい自己犠牲の押しつけだったりするのかもしれません。
結局、自分を大切にできない人は、他人のことも本当には大切にできないんじゃないか、と最近は思っています。
同じくらい、自分のことを大切にしてくれる人を大切にしよう、と考えています。
全ての人を救ってあげたい、そういう気持ちはありますがリソースは有限です。
結局、ここでも選択と集中という考え方があり、自分にできることを選択して集中するしかないと思っています。
絶対的な正解がある、という世界
宗教の世界は割と「決めつけ」が強い気がします。
もちろん、教義として筋が通っているものも多々あるとは思うし、信じることで救われる人もいると思います。
でも、ボクにとってはこの「絶対的な正解がある」という考え方は、正直息苦しかったですし、違和感しか感じませんでした。
この世の中って、グレーなことばっかりじゃないですか??
白か黒かじゃ割り切れないこと、
善か悪かでは判断できないこと。
そもそも、白黒も善悪もなく、優劣があるわけじゃないことも多いです。
宗教的な価値観にどっぷり浸かっていたボクにとって、「自分で考えて、自分で選ぶ」ということが、ものすごく難しかったんです。
人生にマニュアルがあるわけじゃないし、宗教の正しさだって、時代や国によって変わる。
何なら、同じ本尊を崇めているのに解釈違いで多数に分かれている宗教だってたくさんあります。
だから今は、白黒つけるのではなく、「グレーを受け入れる」ことを意識して生きるようにしています。
「曖昧さを許容する」ということは、優柔不断という意味ではなく、一つの重要な選択肢だと考えています。

「こうあるべき」に縛られた青春
お寺で育つと、「○○家の子」としての看板を背負って生きることになります。
そんなこと、実際はないんですが父親の家系は特にこういう考え方が強かったです。
特に、ボクは長男だったので、必要以上にプレッシャーが強かったと思います。
「◯◯寺の跡取りとして恥ずかしくないように」
「家の名に泥を塗らないように」
そんなプレッシャーが常にあった気がします。
結果として、ボクは「こうあるべき」という価値観に縛られて、何も自由に考えることができなかった。
- 目立つのは良くない
- 自分の意見は出さないほうがいい
- 人の期待に応えるのが正しい
こんな感じで生きていたと思います。
でも、今になって思います。
「こうあるべき」なんて幻想だし、そんなものに縛られてたら、生きるのがつらくなるだけです。
人生に絶対解なんてありません。
今のボクは、ようやく「自分はどう生きたいか」を考えられるようになってきたところです。
これはいつも言っている「他人ではなく自分の人生を生きる」ということです。
「ありがたみ」と「罪悪感」でコントロールされていた
お寺の世界には、この他にも根深い価値観があります。
例えば「ありがたみ」と「罪悪感」のセットです。
さすがにここまで強い表現ではありませんでしたが、言葉は違えど、こういったことを繰り返し言われてきたように思います。
宗教は関係なくとも、昭和の毒親世代にはよく言われたことかもしれませんね。
宗教の特徴である「お前は守られている」的なことはよく言われていました。
自分がどれだけ頑張って出した成果でも、本人の努力ではなく、祈りの結果のように言われてしまうのは子どもの頃から何とも言えない気持ちにさせられたものです。
こういった正しいことを正しいと思え、ありがたいと思えみたいな価値観で生きていると、ある時から「罪悪感」として心に積もっていくことがあります。
こんな風に強烈に思い込んでいました。
そう思い込んで、どんどん自分の気持ちを押し殺すことが当たり前になっていた気がします。
「親の期待を裏切ってはいけない」という重たい荷物を、知らず知らずのうちに背負っていたんですね。
これをボクは最近は「呪いの装備」と表現しています。
こんなことを今は表現できるくらいには洗脳が解けた気がしますが、昔のボクには考えられない表現ですね。
価値観をアップデートしていく人生
今、ボクが意識的に取り組んでいるのは「価値観のアップデート」です。
これはもう一生続いてくことだと思っています。
お寺で育ち、宗教的なフレームに長く生きてきたボクにとって、それは自分のOSを書き換えていくような作業です。
その問いに対して、ひとつずつ、自分なりの答えを見つけていっている段階です。
まだまだ迷いながらですが、少しずつ前に進めている感覚があります。
今が常に最高な人生である、とボクは決めて生きています。
これは傲慢になったりするという意味ではなく、そういうポジショニングです。
まとめ
今日はお寺生まれのボクの価値観に注目して書いてきました。
- お寺で育ったことで、「我慢するのが当たり前」「従うのが美徳」という考えが身についていた
- 怖さを“尊敬”と感じていたこともあった
- 「みんなのために生きるべき」と思い、自分の気持ちを後回しにしてきた
- 親の期待に応えることが大事で、自分の本音を抑えるようになっていた
- 正解はひとつという考えに縛られ、自分で考えることが苦手だった
- 「こうあるべき」にとらわれて、自分らしく生きることができなかった
- 感謝や罪悪感で、自分の気持ちを押し込めていた
- 「親をがっかりさせないこと」が自然になっていた
- そうした考え方が「心の足かせ」になっていたと気づけるようになった
- 今は、自分の気持ちを大事にしながら、少しずつ考え方を見直している
こんな感じですかね。
「育った環境で形成された価値観は、変えられない」
そう思い込んでいた時期がボクにもありました。
でも、今は違います。
価値観は“変えていい”。
むしろ、“壊していい”。
一度全部壊してゼロから積み直すことでしか、自分らしい生き方なんて見つからないと、ボクは思います。
お寺で生まれ育ったこと自体に後悔はないですし、自分の原点だと思っています。
でも、それに縛られすぎて苦しかったことも確かです。
だからこそ、今のボクは「自分の価値観を、自分で選んで生きる」ことを意識しています。
同じように、過去の価値観や親から刷り込まれた思考のクセに悩んでいる人がいたら、ぜひ伝えたいです。
あなたは、自分の価値観で生きていい。
それが、たとえ“親不孝”だと誰かに言われたとしても、あなたが納得できる人生なら、それが正解なんです。
断っておきますが、好き放題に生きろとか奇人変人になれ、と言っているわけではありませんよ??
その点、ご認識を拡大解釈しないようにお願いします。
今回は、ボクが育ったお寺という環境で培われた価値観について、深掘りしてみました。
自分の原体験をシェアすることで、どこかで誰かの気づきや癒しになれば嬉しいです。
また次回以降もこういう感じで書いていきます。
今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。
よりよい人生にしていきましょう\(^o^)/
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