おはようございます!ミヤビです(^^)
今日は「運の良さ」をテーマに思うことを書いていきます。
ボクはふとした時に、「ああ、自分って運が良いな」「ラッキーだな」と思うことがあります。
一方で、他者に「ラッキーですね」と言われるとちょっとモヤッとすることがあります。
そんな感じのお話です。
「宝くじに当たってラッキー!」とかそういう話ではないです(笑)
運が良かったな、と思える毎日
冒頭でも述べましたが、ボクは自分がついているな、ラッキーだな、と思うことがあります。
- 病気休職したが仕事を失わず、元気に回復した
- 仲間に恵まれ充実した人生を生きている
- やりたいことをある程度やれている
- 美味しいご飯を食べれて元気に生きている
細かいことを言うと数え切れないくらい、ボクは日々に恵まれていて感謝しています。
これらを自分としては「運が良いな」と思っています。
毎日に感謝、仲間に感謝ですね。
このブログを読んでくれている皆さまもありがとうございます。

自分で「運が良い」と思うのは、自己肯定のひとつの形
人は、起きた出来事の解釈を自分なりに意味づけて生きています。
たとえば、嫌なことがあっても「でも運が良かったかも。もっと悪いことにならなかったから」とポジティブに捉えるのは、生きる力です。
ボクはもともとネガティブな性格で、引きこもりがちです。
テクニック、スキルとしてそういう“都合の良い解釈”が得意になるようになってきました。
自分の気分をいい方向に持っていくための技術とも言えるかもしれません。
運の良さとは、実際の確率や現象ではなく、「自分はついてる」と思える心の持ちようにある。
だから、自分で「俺、運いいな」と思うのは、ある種のセルフケアです。
傷を浅くし、日々を軽やかに生きるために有効なテクニックかな、と思います。
他人からの「ラッキーだね」に感じる違和感
では、なぜ人から「ラッキーだったね」と言われると、ちょっと違和感があるのでしょうか。
実際にボクは過去に人から言われたことがあります。
「良い会社に転職できたの?すごいね〜、運良かったんじゃない?」
「あの仕事うまくいったんですか〜!?ラッキーでしたね」
この時にボクは「はぁ?????」
と思った記憶があります。
この「ラッキーという言葉に含まれるニュアンス。
そこには、努力や選択のプロセスが見落とされている気がして、ちょっと引っかかるのです。
もちろん、相手に悪気がないのはわかっています。
でも、自分が選んできた道や、陰でやってきたことを「運」という言葉ひとつで軽くまとめられてしまうと、「いやいや、そうじゃねーし!」と言いたくなります。
たとえば受験や転職、恋愛や人間関係──。
「ラッキー」という言葉は、当事者の試行錯誤や感情の揺れをすっ飛ばして、“結果”だけを見ているように感じてしまうんです。
こういう人たちのことをボクは「物事を天動説でしか考えていない人たち」と表現しています。
本当は、ちょっと嫉妬が混じってるのかもしれない
正直に言えば、「ラッキーだね」と言ってくる相手の中には、少しの嫉妬や羨望が混じっているように感じることもあります。
もちろん、ぼくの被害妄想かもしれません。
でも、何かがうまくいった時に「それって運が良かったんじゃない?」と返してくる人は、そこにある種の“距離”を置こうとしているのかもしれません。
つまり、「あなたと私は違う。あなたは運が良かったからその結果になった」と整理することで、自分を納得させている。
無意識かもしれないけれど、そうすることで自分が否定されないようにしているのかもしれません。
ボク自身も誰かの成功を「運が良かったんだろうな」と思っていた時期があります。
それは、羨ましさの裏返しだったり、悔しさだったり。
今はどんな話を聞いても、その人が努力してがんばった結果だろうな、と思います。
成功の裏には、見えない選択と積み重ねがある
ボクは、いわゆる「超努力家」というタイプではありません。
凡人の自覚があるので、迷って、悩んで、動いて、時には諦めてきた積み重ねがあります。
マンガ家になりたくて専門学校に通いましたがその道は諦めました。
ブログを書くときも、どんなテーマで、どんな読者に届けるか?をAIの力も借りながら、悩みながら書いています。
まだまだ「うまくいってる」なんてことは何もありません。
もしもボクのことを「なんかうまくいってる」ように見えることがあるとすれば、それはただの“表面”です。
その裏には、「地味な積み重ね」と「たくさんの判断ミスと後悔、苦悩」があります。
だからこそ、それを一言で「運が良かった」「ラッキー」とまとめられてしまうと、少し寂しくなるのです。

本当にラッキーだったとしても、それは自分が選んだ道の上にある
もちろん、人生には偶然もあります。
出会いやタイミング、運命のような不思議な流れ。
でも、その偶然に出会えるのも、自分が動いたからです。
目を開いていたから。
人に会いに行ったから。
言葉にしたから。
個人的には「偶然なんてない、すべてが必然」と考えています。
たまたま紹介された仕事に応募して採用されたとしたら、それは「紹介されたから」だけでなく、「応募したから」「受かる準備をしていたから」とも言えます。
つまり、偶然に“乗れる状態”を、自分自身がつくっていたということ。
チャンスは誰にでもありますが、掴めるのは準備していた人だけなんですよね。
そう考えると、「ラッキーだったね」と言われたときのモヤモヤも、少しだけ整理できる気がします。
「運が良い」と言えるのは、自分の特権
結局のところ、ボクにとって「自分って運が良いなあ」と思うのは、自分へのねぎらいです。
うまくいかなかったときに自分を責めすぎないための免罪符でもあるし、うまくいったときに素直に喜ぶための言葉でもある。
他人からの「ラッキーだね」は、文脈によってはモヤっとするかもしれません。
でも、自分自身が「ラッキーだったな」と思えるなら、それでいいじゃないかとも思います。
最近はそういう配慮のない言い方をする人とは自然と距離をおくようにしています。
幸せや成功の定義は、人それぞれ。
そして、それをどう捉えるかも、自分次第。
毎日、自分の小さな幸運に気づける自分でありたい。
他人にどう思われても、自分で「運が良い」と思えるなら、それは何よりの強さといえるんじゃないでしょうか。
毎日が「最高でハッピー」「ボクの人生はラッキー」です。
まとめ
今日は「運の良さ」をテーマに書いてきました。
- 「自分は運が良い」と感じることは、日々への感謝や自己肯定の表れ
- 起きた出来事をポジティブに解釈することは、生きる力になる
- 「ラッキー」という言葉には、努力や選択のプロセスが省かれてしまうことがある
- 他人からの「ラッキーだったね」にモヤっとするのは、背景を知らない評価だから
- 実際の成功の裏には、迷いや試行錯誤、たくさんの地道な積み重ねがある
- 偶然に見える出来事も、自分の行動や準備によって引き寄せたもの
- 「ラッキーだった」と思える心の余裕が、人生を軽やかにする
- 幸せや成功は他人と比べるものではなく、自分がどう感じるかが大事
- 「運が良い」と言えるのは、自分だけの特権であり、自分をねぎらう言葉
- 毎日を「ラッキー」と思える自分でいることが、強く、しなやかに生きる力になる
こんな感じですかね。
ボクが一緒にいて心地よいな、と思う仲間たちは皆んな自助努力をして生きている、素晴らしい人たちばかりです。
ある仲間に、病気の克服を告げた時に言われました。
「ミヤビさんの努力の賜物ですね」と。
本当に嬉しかったですね。
残念ながら病気になった人に対しても心無いことを言う人はいるし、回復しても「ラッキーだったね」みたいな言い方をする人はいます。
他者から見てラッキーに見える人も、裏では泥臭く時間と労力をかけて努力しているんですよね。
まぁ、言いたい人には言わせておきましょ(笑)
最高で素晴らしい毎日に感謝しつつ、ラッキーだなぁ!と思いながらこれからもコツコツと頑張っていきます。
今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。
より良い人生にしていきましょう\(^o^)/
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