おはようございます!ミヤビです(^^)
今日は、「お母さん、ありがとう」というテーマで記事を書いてみたいと思います。
少し前、母の日と母の誕生日をお祝いし、2人で母子で過ごす時間があり、かけがえのない大切な時間だったなぁ、という感傷的な気持ちになりました。
シンプルに母への感謝と、少し複雑な想いを言語化しておこうと思いました。
「母」を語るのは、少し照れくさい
正直に言えば、ボクにとって「母との関係」は決して美しい思い出ばかりではありません。
お寺の世界で生まれて生きてきたボクですが、母もまたお寺の奥様という、ちょっと特殊な立場で人生を過ごしてきた人です。
お寺生まれのボクについて、少し前に記事を書いていました。
あまり母については触れていなかったですが、想像できないくらい大変な人生だったと思います。
そんな母に対してですが、ボク自身が大人になるにつれて、価値観のズレや、言葉にできないもどかしさ、時には苛立ちすら感じることもありました。
きっと、どの家庭にもあるでしょう。
母とぶつかった記憶や理解されなかった寂しさ。
自分だけが分かってもらえないような感覚。
一般的には、思春期や社会に出てからの葛藤があり、親子だからこそ強く、深く、そして複雑なものだと思います。
ボクの場合は、中学生になるタイミングで親元を離れて寮生活をしていたので、思春期に母親と過ごしていたことはありません。
いわゆる親に対する反抗期というものはなかったはずです。
だからこそ、というのも変ですが、特に母親に対しては言葉にできない愛情の飢えのような感情、裏返しがあるように思います。

弟の対比
これは本人たちは何も気にしていないことかもしれませんが、ボク自身は弟と比べてしまっている自分がいる気がします。
自分自身が人と比べてしまっているだけな気もしますが、母の影響も多少あります。
弟に関しての記事も少し書いたことがあります。
40歳を過ぎても無職で実家にいる弟を甘やかす母親を見て「なんで?」と思うボクは、変なのでしょうかね。
恨みや憎しみなどはありませんし、人それぞれの人生です。
兄として弟が心配なだけ、という気持ちもありますが、母親の態度とか関係性という点で、複雑な感情を抱いている自分のことは、また認識しておかねばならない事実かな、と思います。
感謝は、後からやってくる
感謝というのは、すぐには気づけないことが多いものです。
自分が大人になって、ある程度「自分の足で立って」みると、ふと母の存在の大きさに気づかされることがあります。
子どもの頃、小学生6年くらいまでの記憶です。
風邪をひいて寝込んだときに看病してくれたことや、作ってくれたおじやの味。
朝ご飯を毎日作ってくれて、優しいおかんの味がする味噌汁。
そういう小さな記憶の断片が、まるで古いアルバムのように、今になって心を温めてくれるのです。
「母であること」は、当たり前ではなかった
ボクも40代を過ぎているので、自分の身の回りの女性たちが「母になる」という経験をしているのを少なからず見てきて、ハッとしたことがあります。
それは、子どもを育てるというのは、本当に大変なことなんだな、ということ。
ボク自身は結婚もしていないし、子育ての経験もないので、絶対に当事者にはなれません。
当事者の気持ちに寄り添うことはできるので、その気持ちになってみると本当に大変なことだと思います。
睡眠時間も、自由な時間も、そして自分自身の感情すらコントロールしなければならない日々。
理屈じゃない愛情を注ぎながらも、社会との折り合いや、家庭とのバランスに苦しむ姿を見て、「母親という存在の尊さ」をほんの少しだけ。理解できた気がします。
母も、きっと若かった。
初めてやる子育てに向き合っていた。
未熟なまま、母になり、母であろうと精一杯頑張ってくれていたのだと思います。
その姿を、子どものボクは知る由もなかったです。
ただ「お母さん」としてしか見てこなかった。
あの日々は、決して当たり前ではなかった。
必死に「お母さん」を演じてくれていたのだと思います。

ダメダメな僧侶であり男である父親
あまり言いたくありませんが、僧侶である父が家庭において機能していなかったと思います。
昭和の価値観も手伝ってか、家事育児に関しては男がするものじゃない、みたいな風潮があったんでしょうか??
僧侶である父親はそれが思っている100倍ひどい気がします。
お茶碗一つ洗わないし、洗濯も何もしないです。
それに対して黙って子育てから家事もやっていた母親は、すごいなぁと思います。
現在の女性であればもうすぐ離婚だと思います(笑)
残念ながら父親に対してはもうあまり前向きな感情を持てない自分がいます。
この辺もまたどこかで言語化してみようと思います。
ありがとうを、言葉にすること
「ありがとう」は、どんなに心に思っていても、言葉にしなければ伝わりません。
ボクは「そんなこと言わなくてもわかるだろ」的な事を言う人が好きではありません。
言わなければわからないし、伝わりません。
わかっているけど、なかなか言えない言葉。
特に親に対しては、照れくささや過去の感情が邪魔をしてしまうのは正直なところです。
言えるうちに伝えておくことは、きっと大事です。
親孝行って、何をしたらいいのかわからない。
プレゼントを贈っても、食事をおごっても、なんだかしっくりこない。
そんなとき、ただ「ありがとう」と言ってみる。
言葉には、想像以上の力があります。
ボクもちゃんと伝えられているわけではありませんが、こうして文字にすることで少しずつ近づけたらと思っています。
僕にできること
母にしてもらったすべてを、同じように返すことはできません。
親子であっても他人であり、同じ人生を生きているわけではないからです。
これこそが僕にできる「ささやかな恩返し」だと思っています。
母のように誰かを支えられる人間でありたい。
母がくれた無償の愛を、次の誰かに少しでも分け与えられるような生き方をしたい。
「ありがとう、お母さん」
この言葉を、今は心の中で、でもいつかしっかり声に出して届けたいと思います。
自分が実際に言葉にするなら、たぶんこうなります。
まとめ
今日は「お母さん、ありがとう」というテーマで書いてきました。
- 母の日や誕生日をきっかけに、母への感謝の気持ちを見つめ直した
- 子どもの頃は素直に感謝できなかったけれど、大人になってようやくわかったことがある
- 寺という特殊な家庭環境で、母は多くの役割を一人で背負っていた
- 思春期に距離があった分、今になって湧いてくる想いがある
- 「母であること」は決して当たり前ではなく、尊いことだったと気づいた
- 父と母を比較することで、母の偉大さがより際立った
- 言葉にして「ありがとう」と伝えることの大切さを実感した
- 恩返しは派手なことでなくてもいい。母を気づかい、自分らしく生きることもひとつの形
- これからは、感謝の気持ちを言葉と行動で、少しずつ返していきたい
こんな感じですかね。
親子というのは、不思議な関係です。
近すぎて見えなくなる。
離れて初めて、大事だったと気づく。
照れくささと愛しさが、交差してしまう関係性。
だからこそ、ちゃんと向き合ってみることに意味があるんじゃないでしょうか。
有限な人生で、大切な人に感謝を伝えていくようにしていきます。
お母さん、生んでくれてありがとう。
今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。
より良い人生にしていきましょう\(^o^)/
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