おはようございます!ミヤビです(^^)
今週は「お寺生まれのボクの原体験」をもとにブログを書いています。
前回の記事では、ボクが僧侶という存在に抱えてきた“信用できない”という率直な思いを綴りました。
後から読み返すと、感情が入り込んでいて少し批判的、否定的に見える内容かもしれません。
繰り返し書いていますが、特定の団体や個人を批判や攻撃する意図はまったくありません。
今後の人生では宗教やお寺に積極的に関わることは今のところはないですが、教養として学ぶことは大事かな、と思っています。
長くお寺に関わってきて、お寺で生まれた人生を振り返ると、僧侶やお寺が持つポジティヴな側面も確かに存在します。
今回は「宗教」「お寺の生活」「僧侶のポジティヴな面」という三つの視点から、前向きに書いていきます。
1. 宗教が与えてくれる“枠組み”と“問い”
宗教の最大の価値は、絶えず変化する世の中で「変わらない軸」を提供してくれる点にあります。
仏教であれば「無常」「縁起」「慈悲」といった教えが、それぞれの生き方を内側から支えてくれます。
生き方の普遍的なフレームワークを示していると言えるでしょう。
さらに宗教は、“人生の意味”という大きな問いを投げかけてくれます。
法要の読経や坐禅の静寂に身を置くと、「自分は何のために生きているのか?」という根源的な問いが自然と浮かび上がってくる。
問いを持ち続けること自体が、実は人を成熟へ導く大切なプロセスなのかもしれません。
Appleの創業者のスティーヴ・ジョブス氏が日本の禅に感銘を受けたという話も聞きます。
何か人生の余白を感じる問いかけが宗教にはあるのかもしれません。
2. お寺の生活が育む“心と体のリズム”
お寺というと規則正しいイメージが思い浮かぶ人も多いかもしれません。
朝がメッチャ早い、みたいなイメージもあるでしょうね。
2-1. 規則正しい一日
お寺の一日は、早朝の勤行(ごんぎょう)から始まります。
勤行(ごんぎょう)とは
勤行とは、仏教において「勤め励むこと」を意味する言葉で、主に寺院や自宅の仏壇の前で、定められた時間に読経や礼拝などを行う儀式のことを指します。「お勤め」とも呼ばれます。
仏教における意味
- 本来は「仏道修行に精進すること」という広い意味を持ちますが、現代では特に仏前でお経を読むことや、日常的に仏壇に手を合わせる行為を指す場合が多いです。
- 勤行は仏教徒として善行に励む実践であり、仏典に説かれる善業(ぜんごう)の一つとされています。
- 日常的な勤行のほか、彼岸やお盆などの年中行事、法要、葬儀など特別な場面でも行われます。
勤行の内容
- 読経や念仏、礼拝、回向(えこう)などが含まれます。
- 具体的な作法や使う経典、勤行の回数や手順は宗派によって異なります。
例えば、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗など、それぞれ独自の勤行様式があります。勤行の意義
- 日々の生活の中で仏教徒であることを自覚し、善い行いを実践するための修行です。
- 故人の冥福を祈る追善法要や、仏恩・師恩への報恩、仏徳を讃えるためにも行われます。
用語の使い方
- 「勤行する」「朝の勤行」など、動詞や名詞としても用いられます。
まとめ
勤行とは、仏教徒が仏前で読経や礼拝などを行い、善行に励むための宗教的実践です。宗派や場面によって内容や作法は異なりますが、日々の修行や法要、年中行事など、仏教徒の生活に深く根付いた重要な行いです。Perplexity の Eliot より
冷たい空気の中で読経の声が響くと、まだ暗い本堂に灯る燈明(とうみょう)のゆらぎが、まるで心拍のリズムを整えてくれるかのようです。
修行時代の寮生活、学生時代には「眠い」「寒い」としか思っていませんでしたが^^;
大人になった今では“自分を日常に接続する起動スイッチ”とでも言いましょうか。
一種の瞑想の時間だったんだな、と思います。

2-2. 五感で味わう季節
椿が落ちる音、線香が湿気を帯びる匂い、雨上がりの瓦についた水滴——都会のマンション生活では気づきにくい季節のディテールが境内では毎日アップデートされ続けます。
この「五感のチューニング」は、情報過多の現代人にとって立派なセルフケアです。
3. 僧侶のポジティヴな面——“媒介者”としての役割
真面目で素晴らしい僧侶の方もいらっしゃるでしょう。
その宗派の教えを自ら体現し、現代に広めていく役割を持っていると言えます。
3-1. 喪失を受け止めるプロフェッショナル
身近な親しい人を失うというのは身を切られるよりも辛いことです。
葬儀は悲嘆と混乱で呼吸さえ忘れがちな時間ですが、読経の安定したリズムと丁寧な所作は、遺族に「今、ここ」を取り戻させる力があります。
ボク自身、親族の葬儀で住職の静かな一礼に救われた経験があります。
3-2. コミュニティのハブ
お寺で開催される法要など行事、宗派によっては写経会などが、「外に出る理由」と「人と話す機会」を提供し続けています。
SNS全盛の時代にあっても、“リアルで緩くつながる場所”を維持しているのは、お寺ならではの社会的意義があると言えるのではないでしょうか。

3-3. 価値観の通訳者
マインドフルネス研究の学会に僧侶が登壇するように、仏教語を現代語へ翻訳し直すことで哲学や心理学との橋渡し役を果たしています。
4. 現代に生きる僧侶たちの“アップデート”
宗派や個人によりますが、インターネットやテクノロジーを活用して活動している僧侶もいらっしゃいますね。
以前、京都のお寺を回った際には「進化してるな〜!」と感じたことがあります。
お布施がキャッシュレス化になっていたり、参詣する人の目線で休憩所なども細かい気配りがされているお寺がありました。
お布施に関しては、“お気持ち”という曖昧さを残しつつ、透明性を高めようとする取り組みは素晴らしいんじゃないでしょうか。
5. 宗教や僧侶から学べること
特定の宗教をオススメしたりすることはありませんが、宗教から学べる事はあると思います。
現代のビジネスマンには必要な技術でもありますが、原点は実は宗教にあるのかもしれませんね。
6. 批判と尊重は両立できる
宗教団体や僧侶で褒められたものではない団体や人がいることは事実です。
一方ですべての人がそういうわけでなく、真面目に公に尽くしている方々も多数いらっしゃいます。
普通の会社などの組織でも同じことですね。
僕自身が宗教に対してどうこうすることはありませんが、自分が関わる共同体に対しては、こういう観点は持ち、行動していきたいと思います。
7. 寺院が守る“文化財”というタイムカプセル
瓦一枚、梁一本に宿る職人の技術。
お寺は宗教施設であると同時に、日本建築や庭園芸術を未来へ継承するタイムカプセルでもあります。
檀家離れが進む中、クラウドファンディングで修繕費を集める取り組みが成果を上げたケースもあるようです。
日本の建築技術は素晴らしいものです。
文化財として残していく価値はあるんじゃないでしょうか。
これはアートの領域ですね。
8. 教育の場としてのお寺——“寺子屋リブート”
江戸時代の寺子屋は読み書き算盤を教える公教育の源流と言われています。
現代でも一部の寺院が放課後の無料学習塾やにぎわい図書館として門戸を開いています。
寺子屋プロジェクト、なんてのもありますし、子ども食堂をやっているところもありますね。
境内でドローンを飛ばしながら僧侶がプログラミングを教える光景は、「学びに遅すぎることはない」という仏教的メッセージそのものかもしれません。
9. 僧侶自身の“セルフケア”
葬儀は365日突然にやってくるものです。
僧侶も人なので、悩みに向き合う時間やストレス発散も必要でしょうね。
人を支えるには、まず自分を支えなければならない。
自分を支えれない人が他者を支えれるわけもないですね。
10. これからのボクのスタンス
教養として宗教や歴史は学んでいこうと思います。
特定の団体に所属したりすることはないでしょうし、オススメすることもまずありませんね。
ただただ批判するだけの人間になりたいわけでもないので、余白は残しつつ学べることは学んで行こうと思います。
まとめ
今回は「宗教」「お寺の生活」「僧侶のポジティヴな面」という三つの視点から書いてみました。
- 宗教は人生の指針や心の拠り所になる一面がある
- 僧侶は地域や人とのつながりを支える存在でもある
- 現代のお寺は、文化・教育・癒しの場としての可能性がある
- 宗教への疑問と敬意は両立できる
- 教養として宗教や歴史を学ぶ姿勢が大切
こんな感じですかね。
ボクが僧侶に不信感を抱くのは、かつて“闇”の部分を濃厚に浴びたからです。
いくらでも恨んだり憎しみの心を持って生きる道もあるのかもしれませんが、そういう生き方はしたくないと考えています。
赦せるものでもないこともありますが、だからこそ今こうして“光”を書き留めることは、自分自身の内側に生じたコントラストを認め、統合する作業でもあります。
世の中には善だけの人も、悪だけの制度も存在しません。
光と影のグラデーションを見極める目を養う——それが、お寺生まれに課された終わりなき修行なのかもしれませんね。
人生それ自体が終わりなきゲームであり、修行のようでもあります。
これからも前向きにコツコツと生きていきます。
今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました。
より良い人生にしていきましょう\(^o^)/
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